まず、はじめに『岩崎順子さんへ、貴重なバトンを僕みたいなバカ造に渡してくださり、大変、恐縮ですが本当にありがとうございました。このバトンを次の方へ渡すために一生懸命にあるがままの自分史を書かせていただきますね。サイトの管理人さんにも感謝申し上げます。』
それでは‥‥そう、30歳のバカ造ですが、今まで僕なりに沢山、いろいろな経験をさせていただきました。
思うまま、真っ白なキャンパスである、この場所に文章という色を足していきたいと思います。
僕の名前は谷 正義、30歳、子年でO型人間です。
生まれは大阪府天王寺区で統合失調症の尊敬する素敵な両親のもとで生を受けました。
父は善弘。母は雅子。弟は正裕。
祖父は昭一郎。祖母は現田シマ子。
現田シマ子は私と弟が現在、経営するデイサービスセンター雅で86歳の名誉看護師長として働いてくれています。まず、現田シマ子の事をご紹介します。
《現田シマ子、昨年11月の和歌山県紀の川市の青洲の里で開催された和歌山オレンジカフェ雅での講演より》
みなさん、はじめまして、私は、ここから10分ぐらいの場所の、紀の川市下丹生谷にあるデイサービスセンター雅で85歳名誉看護師長として、働いております。現田シマ子と申します。
本日は、お忙しい中、また、休日の貴重な、お時間を使っていただき、孫たちが企画した和歌山オレンジカフェ雅にご参加くださりましてありがとうございます。
つたない話では、ございますが、聞いてください。
私は、6年ほど前に2度の脳梗塞により寝たきりの状態でした。とても苦しかったです。
そんな私に周囲の方々が関わってくれ、それに何としても答えよう!
と、私自身、一生懸命にリハビリを頑張りました。その結果…この様に元気になることができ念願だった看護師の仕事をしています。
私が再び働きたいと思うようになったきっかけは、聖路加病院の103歳を超えた現在も医師としてご活躍の日野原重明先生の講演を聞いて
私も「日野原先生みたいに周囲の方々を元気にできる人間になりたい
看護師としてもう一度、患者さんの笑顔がみたい」と思うようになりました。
それを、孫に話をしたところ「ばあちゃんがやりたいなら、やっても良いと思うよ。ばあちゃんが出来ないところは僕らが手伝うし、僕らが出来ないところは、ばあちゃんにやってもらうから大丈夫。」と、こころよく引き受けてくれました。
今、デイサービスセンターで月曜日から金曜日まで、無理はできませんが務めています。
ここから、少し昔の話をしますね。
私は、鹿児島県大島郡喜界町羽里で父・岩井さいたか と 母・岩井トヨ、4人兄弟の次女として生まれました。
父は、私が幼少時に太平洋戦争ビルマで戦死と聞いていましたから、どんな人物だったかは記憶がありません。
母は、父が戦死した後、女で一人で4人兄弟を育ててくれ、幸せに暮していました。
そんな、やさしかった母は私が女学校入学の合格発表の日に病死。
悲しみに明け暮れた学生時代を叔母が助けてくれました。
女学校卒業後、鹿児島県鹿野市にある国立看護学校に入学し卒業、
卒業後、同市にある国立病院に就職
真面目で働く姿が病院に認められて同県の看護学校の専任教員として教壇に立ちました。
同僚であった宇津和子先生は、聖路加病院の日野原重明先生の教え子で、日野原先生は、とても教育熱心な先生だと教えてもらいました。今、振り返っても楽しい思い出です。
私は28歳で結婚しました。
結婚をきっかけに病院を退職し兵庫県尼崎市で米問屋を営んでいた主人の所へ嫁ぎ3人の子宝に恵まれました。長男の出産はすべて助産師でもある私自身で取り上げたんですよ
子育てをしながら米屋を手伝っていましたが、看護婦のクセが抜けず、お客さんに対して「おおきに」と言わずに「おだいじに」と言って主人の父に笑われた事もあります。
もう一度、看護婦の仕事がしたいと、
夫と3人の子供を置いて夜逃げする形で鹿児島県へもどり職場復帰。
今から考えたら、とんでもない行動でしたが…それぐらい看護婦の仕事をやりたいという気持ちが強かったんだと思います。
ですが、そんな生活が続くわけもなく、下駄履き一つで私を探しに来た主人に連れ戻されました。
身勝手な私を親戚は良いと思っては、いませんでしたので、とても窮屈な生活を強いられました。
それも耐え切れず、次は、大阪へ2度目の夜逃げ、今度は子供3人を
ちゃんと連れて行きましたよ。主人は、置いていきましたが…
生き馬の目も抜くような場所だと聞かされていた大阪を必死で住む部屋と仕事を探し回り、大阪市にある中津済生会病院に勤めることになりました。
直後、主人が大阪に現れまた、連れ戻されると思いましたが、私の頑固さに負けて実家の米屋をやめて一緒に住むと言ってくれました。
裕福な米屋での生活から一変、無一文、子供3人を養うため、夫と私は近所の方々に子供たちを預けて朝から晩まで必死で働きました。
守るものがいれば、不思議と仕事は楽しくやっていましたよ
数年がたち、子供たちも大きくなり一家は泥船状態から、ようやく安定した生活に変わってきたころ・・・小学校入学前の長男が事故で死にました。
子供たちをほったらかしにして、ガムシャラに働いていた私の責任だと、
ずっとせめ続け、悲しい気持ちから立ち直ることができず家に引きこもっていました。
わが子を失った事実は人生で一番、受け入れがたく悲しく、つらい日々でしたね…
この暗い毎日を救ってくれたのは、友人、知人の訪問と職場の看護婦長さんの言葉です。
「いつまでも悲しんでいたら、亡くなった坊やが悲しむよ、仕事をしたら悲しい気持ちも忘れられるから早く戻ってきなさいよ」と、
その言葉に、まだまだ私には役割がある死んだマサシの分まで生きよう、頑張ろうと、復帰の初日、「マー坊いってくるよ」と、天国の息子に言って玄関を出たこを今でも覚えています。と
その後、済生会病院で数年間、勤務して退職。
次は子供たちに愛情をと夜間の勤務がない大阪自彊館で25年間、当時の定年60歳をこえて63歳まで働きました。
自彊館を退職する日、四十数年間の看護人生が終わるのかと思えば寂しかったですね。
二人の子供たちも結婚後、家を出ていきましたので主人と二人暮らしに戻りました。
やれやれと思っていた、私が66歳の時、主人が度重なる交通事故で寝たきりになり、主人が78歳で亡くなるまでの10年間、私が自宅で介護をしていました。
毎日それは、それは、しんどかったです。
主人が亡くなってから直ぐ、長年の疲れのためか自宅で倒れ、偶然、遊びに来た娘と孫に病院へ連れていかれ即入院になりました。
倒れた原因「脳梗塞」。
早期発見のお蔭か後遺症なく元気に退院でき、心配していた娘夫婦と
一緒に住むことになりました。
その数か月後、再び脳梗塞を発症
今度も、娘夫婦の孫が異変に気付いてくれ病院へ、そして即入院。
病院のベッドで目が覚めた時、体が動かず言葉も出ず、しゃべることも出来ません。
「このまま、死ぬんちゃうんかな…」と恐怖心に包まれていました。
耳だけは、よく聞こえていましたので、病院の先生や娘の声は、よく覚えています。
数か月がたち自宅へ帰ることができましたが、後遺症で右半身は動きません
言葉も、うまくしゃべれません、家でもベッド上での生活が続きました。
ですが四十数年間、看護婦で働いていた私は負けません。
じっとなんかしてられへん!とにかく動きたい!
自宅でリハビリ、孫に紹介されたデイサービスでもリハビリ。住んでいた住宅の4階の階段も手すりをつかんで登れるまでになりました。
これも、家族や周囲の支えのお蔭です。ありがとうございました。
今年9月に、孫がデイサービスセンターをオープンさせてそこで、お世話になっております。
出来ないことは多くなりましたが、まだまだ、頑張りますよー!
人生はこれからです。若い世代に負けてたまるか~という気持ちです。85歳でも、まだまだ可能性はありますよ。歳をとっても役割を見つけてください。
寝たきりにならないように、笑ったり歌ったり楽しく過ごそうではありませんか?
子供世代の皆様へ伝えたいですあまり自分の事ばかり考えないで、
もっと、もっと、とにかく人のために尽くしてあげる人であってほしいですね~
もう歳だ~と思ってしんどい、しんどいというのは、まだ早いですよー
孫世代には、
『もっと自分に自信を持ってほしい。もっと、自分を大切にしてほしい。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんを大切にしてあげてください。これからもっともっと大変になります。消費税だって10パーセントになりますよ。しっかり働いて頑張ってください』
これからも生涯現役で日野原先生のように【いい年のとりかたをしたい】と考えておりますので、みなさん、これからもよろしくお願いします。
私は、上手にお話をすることは、できませんが、デイサービスセンター雅へ、お越しなり私に会いに来てくださいね。
本日は、長時間、ご清聴ありがとうございました。
お元気で、お体を大切にしながら頑張ってくださいね。
これからも、皆様の健康を祈っています。
以上
さて、本題に入ります。順子さん、ありがとうございます。今、そう思いながら文章を打ってます。2015年5月25日(月)の20時です。
僕は元来、勉強が苦手な方でした。反対に運動神経はそこそこ、いける方でよく小学校の時はドッジボールや野球をして遊んでいました。
小学校4年生ぐらいまでは大阪府堺市の祖父母の家でお世話になっていました。
明るくやんちゃな方でしたが9歳になる小学校4年生の時に父の転勤で和歌山県有田郡吉備町(現在・有田川町)の山手にあるお化けが出てきそうなボロボロのアパートに引っ越してきました。そこからが長い...長い...21年間の悪夢の始まりでした。今、思えばなんてないことでしすし、あ の経験のおかげで今の僕があるんだと思います。
細かいことを書いたら長くなるので10分の1の文章に抜粋しながらお話をすすめていきます。
当時、父と母の暴力がすごかった。よく、訳も分からず殴られたことを今も怖いくらい覚えています。父が母を血だらけに殴って警察を僕が2回呼んだこともありました。
母も仕事から帰ってきたうつ病で落ち込み気味の父を執拗に罵声を浴びせ殴ったりちぎみったり張り倒したりしていることも、日常的な風景でした。もちろん、父は、その時は無抵抗でした。
父は、よっぽどの事がないかぎり人に暴力をふるう人ではなかったです。今思えば、重度の精神障害の母【母は16歳で精神分裂病、躁うつ病と 長年闘っている】の行動の理解、父のうつ病【父が20歳の時は自立神経失調症との診断の後、30代後半でうつ病と診断】の理解出来るまで、かなり時間がかかりました。それは、それは言葉に言い表せないぐらい衝撃的な事柄が山ほどたくさん出てきます。今もこの文章を手が震え涙が零れ落ちながら1語1語ゆっくりと打っています。
包丁で何度も急に僕に向かって刺しに来る。僕が布団に入って30分ぐらいしてから僕が寝てる3畳の、食事も寝るのも共同の狭い部屋隣にある台所の豆急ガラス越しに、うす暗く映る包丁を持つ母の姿、そのまま、静かに僕が寝てる部屋に入ってくる。そこから僕のコミュニケーション能力が鍛えられていきました。「いかに殺されないか。いかに怒らせない か。」また、別パターンもありました。母が自分のお腹に包丁を突き付ける事も...『かあちゃん、死にたい。今、世の中で起こっている事件はみんな、かあちゃんのせいなんやろ。まさよし。どうしたらいいんや!お前もあいつらとグルなんやな!今も、この天井の電球の隙間から覗いてるやつもそうやろ...。』こんな意味不明な会話が日常的にありました。特に僕に一番、ケンカ腰に言いにくる。弟には、あまりそんな事はなく、体が弱かった弟の心配はよくしていました。正直、弟に見せる母の眼差しが僕にはなかったので(あったかもしれませんが)羨ましかったことを今でも覚えています。
僕は9歳の時から御飯の煮炊きと簡単なおかずは作っていました。料理は父から教わりました 。父はよく、「見て覚えろ」という感じで僕に教えてくれました。その時は不思議と失敗しても怒りませんでした。
話は、また変わりますが、小学校4年の時から母の奇怪な行動が小学生の同級生や地域の人の噂が広がり、根も葉もない悪口を言われるようになってきて学校に行けなくなる時期もありました。それも、母の看病に付き添える時間が十分に取れ関わる良い経験でした。
「マサヒロは利口で可愛くて賢いけど、お前みたいな嘘つきでバカな子を生むんじゃなかったわ!」と10歳の時に母に言われた日
「お前、うっとうしい...」と静かな口調でうつろな目で正面から暗い狭い場所で父に言われた10歳の時
今も忘れない言 葉、僕じゃなくなる凍り付き解けない言葉...思い出したら頭がおかしくなります。
でも、大阪では元来、明るかったぼくでしたが、和歌山に来てからは無口でおとなしい性格になっていました。今のおちゃらけた僕を小学校や中学校、高校時代の同級生が見たらびっくりするでしょうね。全くの別人に見えるぐらいに変わりましたから。
いろいろ、書くと長くなるので、僕のターニングポイントをお話して終わりたいと思います。
中学校2年生?ぐらいの時期にある出来事がありました。当時も、母は、そううつ病と闘っており【父母の受診付き添いは僕がずっとしてきました】薬漬けでほぼ、1日寝っぱなしで話しかけても反応がない植物状態に近い状 態でした。父もうつ病で仕事に行かず1年ぐらい寝ている状態で弟も僕も学校にも行かず家に引きこもっている状態でした。お金もなく食べるものもなく毎日、お腹が鳴っているとき、突然、反抗期?なんでしょうか、突然、怒りが出てきて父親を引きづり回し、母親にも「お前、ええかげにしろよ!俺らが苦しいのが分からんのか!」と、その時、始めて、言ってはいけない、くそ生意気な言葉を僕は言ってしまいました。
その言った後、5分ぐらい沈黙が続きました...
僕も、言った暴力的な言葉に心臓がドクンドクンしていました。
ずっと、睨んでいた母親の顔を見ていたその時、母親の左目から...【涙のひとしずく】が
ぽろ りと左目から左耳の下へ枕へ流れ落ちていきました。
僕は、その瞬間、「かあちゃん、ごめん」と思い、そのまま、両手を握りました。
その瞬間。また母の目から涙がぽろりと出てきました。
僕も、涙がいっぱい出てきました。
今、0時です。ゆっくり記憶の断片を拾い集めながら書いてます。
僕は、その【母ちゃんの涙】を見たとき、やっと気づきました。
『一番辛いのは僕らじゃない。好きでこんな病気になろうと思ってなっていない誰からも理解されずに【キチガイ】と言われ続けている父母が一番辛いんや。そんな父母の代弁者となり支えてあげられるのは僕らしかないんや!精神障害があっ ても貧乏でもアホでも不登校でも無口で口が臭くて毎日、同じ服であっても、こんなに社会貢献できる立派な息子になれるんやという証明やって世間に見返してやろう!負けてたまるか!今に見てろ!』と、15歳の時、強く、決意した頃を覚えています。
それから、今までも、さらに、とんでもないことがたくさんありましたが全て乗り越えてくることが出来ました。もちろん、僕もたくさんの失敗も経験してきてたくさんの良き先輩方のおかげで僕は【いま、生きてます】
いろんなこと、すべて、わるくない
じぶんの心根ひとつ
まだ、やれる
だから、「弱者を虐める輩」は許せない。
僕は、ずっと闘 っている
あと、何年生きられるか分からないけど医者から「もう、介護の仕事などの力仕事は出来ない」と言われて5年が過ぎましたが
今も働けています。そのことに感謝。
「雅みやび」...母親の雅子の「雅」、祖母の事故で亡くした長男の雅司さんの「雅」、僕が介護という素晴らしい仕事に就き続けられる恩人でもあり尊敬する介護の師匠の菊地雅洋氏の「雅」を冠したデイサービスセンター雅で最高の仲間と高齢者の皆様や地域、関係者の皆様、家族に支えれながら「いま、生きてます」
常に危機感を持ちながら、いろんな事に挑戦ししています。
【自由がなかった幼少、青春時代...今は存分に楽しんでま す。いつ死んでもいいように生きてます。】
もっと過酷な環境で闘っている高齢者【認知症があってもなくても】の方が住みやすい街づくりと不登校や犯罪者の数が減るように僕なりに啓発活動を続けて参ります。
みんなで作りましょう(*^▽^*)
長文駄文を最後まで読んでいただきありがとうございました。
最後に...
「岩崎順子さん、いのちのバトンを繋いでくださり本当にありがとうございました。こんな感じで良かったでしょうか?」
ポジティブに実践もしない根も葉もない悪口ばっかの評論家さんより、ありのまんま、地道に汗流す実践者として今後も懲りずに顔晴ります!
『エイエイオーヽ(^。^)ノ』
<プロフィール>
谷 正義(たに まさよし)1984年8月26日生まれ
職歴:介拓社グループ・デイサービスセンター雅 – みやび専務兼管理者
実弟と二人で合同会社介拓社を独立しデイサービスセンター雅を2014年9月1日よりオープンしました。
大阪府天王寺区生まれ、9歳まで堺市育ち、小學校4年生から現在まで和歌山県内で育ちました父母の介護歴21年、祖父母5年、職業としての介護歴11年目の介護福祉士です。
医学全般から統合医療・福祉まで幅広く好奇心旺盛で勉強中です。
色々と知識の共有できる方々と繋がりを持てたらと思っています。リクエスト申請はお気軽にどうぞ!
フェイスブックグループ「地域の介護業界を盛り上げる会」の管理人・『医療・介護であい空間』の関西の世話人をさせていただいています。
2014.6.1・地域の介護業界を盛り上げたいボランティアの有志のグループ『和歌山地域ソーシャルネットワーク雅(みやび )』の代表をさせて頂いています。
《取得資格》
・認知症トレーナー・ラジオ体操指導員・柔道初段・介護福祉士・福祉住環境コーディネーター3級・介護福祉士初任者研修修了・介護福祉士養成施設実習指導者・認知症キャラバンメイト(認知症サポーター講師)・こころの安全パトロール隊員・防災士・甲種防火管理者・普通救命救急
・普通自動二輪・普通自動車・原付自転車
《会員》
・和歌山倫理法人会・日本介護福祉士会会員・和歌山県介護福祉士会会員・介護甲子園 関西支部 運営委員・日本防災士会会員・全国認知症の人と家族の会・笑福会・全国防犯友の会・精神障がい者家族の会・和歌山県災害ボランティア・倶楽部くれぱす 登録講師・こころの安全パトロール隊員・NPO法人黒江・新・老人の会・和歌山支部・和歌山run伴運営実行委員・和歌山市キャラバンメイト連絡協会の運営委員・J雅Jの会・八咫烏会・その他組織会員
好きな言葉
『目の前の人を大切に』
デイサービスセンター雅のホームページへは⇨http://www.miyabi537.com
「命のリレーコラム」繋いで頂いた方々
都鳥伸也氏⇒袴田俊英和尚⇒藤澤克己氏⇒川浪 剛氏⇒浦嶋偉晃氏⇒久保田千代美氏⇒
岩崎順子氏⇒谷 正義氏⇒江口日登美氏⇒岩本ひろ子氏⇒林 静哉氏⇒柳岡克子氏⇒
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